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  • 「善玉菌を増やす」の前に、知っておきたいこと

    「善玉菌を増やす」の前に、知っておきたいこと

    いまの研究は、「善玉と悪玉に分ける」という前提そのものを外して進んでいます。

    「善玉菌を増やして、悪玉菌を減らす」。日本の腸の情報は、たいていこの形で書かれています。分かりやすく、何をすればいいかもはっきりします。

    この分け方は日本で広く定着していて、分かりやすさの点ではよく働いてきました。何が変わったのかを見ていきます。

    まず、この分け方が広まった理由

    否定から入る前に、なぜこの区分が使われてきたのかを確認しておきます。

    腸の中は見えません。数百種類とも言われる細菌がいて、それぞれの働きも複雑に絡み合っています。この状態をそのまま説明しようとすると、話が始まりません。

    そこで、体に良い働きをするグループと、そうでないグループに分ける。ビフィズス菌や乳酸菌は前者、ウェルシュ菌などは後者、という具合に。この単純化があったから、腸内細菌という存在自体が一般に知られるようになった面はあります。

    分かりやすさのために作られた区分です。それをそのまま判断の基準に使い続けると、無理が出ます。

    「バランスが崩れている」という言い方への批判

    研究の側で議論になっているのが、「ディスバイオシス(dysbiosis)」という言葉です。腸内細菌のバランスが崩れた状態、といった意味で使われています。

    オルセンとアルムは2016年、Nature Microbiology に「Dysbiosis is not an answer(ディスバイオシスは答えではない)」という論考を発表しました1。彼らの主張は、微生物の不均衡という発想が科学以前の思考の名残であり、体液のバランスで健康を説明しようとした古い理論に似ている、というものです。バランスという概念は、有用な微生物研究にとって無関係であるばかりか、むしろ注意をそらしかねない、とされています1。

    翌2017年、フックスとオマリーは mBio で、この言葉が実際にどう使われているかを大量に集めて分析しています。彼らは定義と概念的な記述を分類し、ディスバイオシスの使われ方が持つ問題含みの含意を、とくに因果に関する仮説と、正常・異常の区別の点から指摘しました2。

    この言葉が抱える困りごとは、次のように整理できます。ある人の細菌叢(腸にいる細菌の集まり)が「崩れている」と言うためには、崩れていない状態が定義されている必要がある。ところが健康な腸内細菌叢の定義は、まだ合意されていません。基準がないまま、差異があること自体が「崩れ」と呼ばれてしまいます。

    もうひとつは因果の方向です。病気の人と健康な人で細菌叢が違うという観察は、どちらが先かを教えてくれません。関連と因果の距離が、ここでも問題になります。

    菌は、文脈によって働きが変わる

    二つに分けにくいもうひとつの理由は、同じ菌でも条件で振る舞いが変わることです。

    同じ菌種でも、株が違えば性質が異なります。プロバイオティクス(生きた菌を摂る製品)の効果が菌株ごとに評価されるのは、この違いが実際に効いてくるからです。

    また、単独では問題を起こさない菌が、宿主の状態や他の菌との関係によって振る舞いを変える場合があります。腸のバリアが健全なときと、そうでないときで、同じ菌の意味合いが変わります。

    「良い菌」「悪い菌」という固定的なラベルは、この条件依存性を落としてしまう。落としているからこそ分かりやすいのですが、その分かりやすさが判断を歪めることもあります。

    では、何も言えないのか

    ここまで批判ばかり並べましたが、分かっていることもあります。

    特定の病原体が問題を起こすことははっきりしています。抗菌薬の使用が細菌叢に大きな変化をもたらすことも観察されています。食物繊維の摂取量が構成と代謝に影響することも、繰り返し報告されています。

    批判されているのは、これらの個別の知見ではなく、「善玉が多くて悪玉が少ない状態が良い」という一元的な物差しのほうです。ブリュソウは2020年の総説で、この概念の曖昧さを整理しつつ、その使い方に注意が必要だと論じています3。

    実際、一般向けの解説では「良い菌を取り入れる」という言い方がよく使われます。次の動画は、医薬基盤・健康・栄養研究所の國澤純副所長が、発酵食品と食物繊維、そして菌がつくる物質までを12分で話しているものです。55万回以上見られています。


    ここで話されている中身は、食物繊維が何を増やし、その菌が何をつくるか、という「何をしているか」の話です。分けて聞くなら、「良い菌」という言い方は入口の言葉で、中身は菌の働きの話をしているということになります。

    フックスとオマリーの結論も、言葉を捨てろというものではありません。この分野が予測の範囲と説明の深さを高めていくために、研究者はディスバイオシスをどう語るかを注意深く省みるべきだ、というものです2。

    日常での受け取り方

    「ガスが溜まって張る」という症状を例にとると、菌の善悪では説明しきれません。ふくらみの多くは、中身が増えたからではないと報告されています。

    この話が実際に効いてくるのは、製品や検査の説明を読むときでしょう。

    「悪玉菌が多い」と示されたとき、何と比べて多いのかが問題になります。比較の基準になる「正常な状態」が定義されていなければ、その判定は解釈の一つにとどまります。

    また、「善玉菌を増やす」とうたわれている場合、どの菌をどれだけ増やすと何が変わるのかまで示されているかを見たい。菌種名だけでなく株名が書かれているか、その株で何が調べられているか。ここまで辿れると、話の解像度が上がります。

    そして、菌の数を直接動かそうとするより、食事の内容や薬の使用といった、自分で把握できる要因から考えるほうが、いまの研究水準とは相性がいい。細菌叢は結果として動くもので、つまみを直接回せる対象ではありません。

    単純な物語を手放したあとに

    手放したあとに残るものがあります。菌の善悪は決着していませんが、腸が出口であることは決着しています。

    医学の教科書は、胆汁を「腎臓でろ過または排泄できない脂溶性物質の主要排泄経路」とし、そこへ出されるものに重金属を名指しで挙げています。そして経口で入った金属の大部分は、そもそも吸収されずに便として通過します。

    「腸内環境」という言葉のうち、いま数字で確かめられるのは、菌の構成ではなく通過のほうです。

    善玉と悪玉という物語には、はっきりした利点があります。何が起きているかを説明でき、何をすればいいかも決まる。それを手放すと、しばらく落ち着きません。

    ただ、その落ち着かなさは、実際の複雑さに近づいたことの反映でもあります。腸の中で起きていることは、まだ研究者にとっても輪郭がはっきりしていません。分かりやすい図式のほうが先にあって、実態の理解が追いついていない、という順序になっています。

    「腸活」という言葉には、確かめられる度合いの違う4つの目的が混ざっています。分けると、公的な目標量があるものと、判定する物差しがまだないものに分かれます。

    参考文献・参考資料

    1. Olesen SW, Alm EJ. Dysbiosis is not an answer. Nature Microbiology. 2016;1:16228. doi:10.1038/nmicrobiol.2016.228 https://www.nature.com/articles/nmicrobiol2016228
    2. Hooks KB, O’Malley MA. Dysbiosis and Its Discontents. mBio. 2017;8(5):e01492-17. doi:10.1128/mBio.01492-17 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/29018121/
    3. Brüssow H. Problems with the concept of gut microbiota dysbiosis. Microbial Biotechnology. 2020;13(2):423-434. doi:10.1111/1751-7915.13479 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7017827/

    本記事は概念と研究状況の整理であり、特定の製品・検査の推奨や否定、個別の診断・治療に代わるものではありません。

  • 牛乳でお腹がゆるむとき、やめる前に確かめること

    牛乳でお腹がゆるむとき、やめる前に確かめること

    牛乳を飲むとお腹がゴロゴロする。同じものを同じ量だけ飲んで、何ともない人がいます。この差がどこから来るのかは、はっきり分かっています。

    この差はどこから来るのでしょうか。乳糖不耐症は、機序がはっきり分かっている数少ない「食べると不調」の例で、しかも人類の歴史とつながっています。少し寄り道しながら見ていきます。

    大人になると、酵素は減るのが標準だった

    大人になって乳糖を分解しにくくなるのは、異常ではありません。標準的な発達の経過にあたります。

    乳糖を分解する酵素はラクターゼと呼ばれ、小腸で作られます。哺乳類はどの種も、乳を飲む乳児期にはこの酵素を活発に作り、離乳後はその働きが低下していきます。これが本来の姿です。

    むしろ、大人になってもラクターゼを作り続ける体質のほうが、後から生じた変化です。この体質は「ラクターゼ持続(lactase persistence)」と呼ばれています。

    言葉の順序が逆転していることに気づくと、この話は見え方が変わります。「乳糖不耐症」という呼び名は、飲めることを基準にした呼び方になっています。

    よく見る「世界の3分の2」を、そのまま使えない理由

    「乳糖を分解できない人は世界人口のおよそ3分の2」。日本語の記事で頻繁に見かける数字ですが、その出典となった2017年のメタ解析は2025年1月に撤回されています3。そのため、この記事では世界全体の推定値を挙げません。

    ここで言葉を分けておきます。乳糖吸収不良(lactose malabsorption)は乳糖が消化吸収されない状態を指し、乳糖不耐症(lactose intolerance)はそれによって症状が出ている状態を指します。吸収不良があっても症状が出ない人はいます。この二つは同じではありません。

    体質の違いは、遺伝子の一箇所から

    なぜ人によって違うのか。この問いには、かなり具体的な答えがあります。

    エナッタらは2002年、フィンランドの家系を調べ、この体質を決めている場所をゲノム上のごく狭い区間まで絞り込みました。見つかったのは、ラクターゼを作る遺伝子そのものではなく、その少し手前にあるDNAの一箇所の違いです。この一箇所が、大人になっても酵素を作り続けるかどうかとぴたりと対応していました2。

    興味深いのは次の点です。この多型が互いに遠縁の複数の集団に見られることから、著者らはこの変異が非常に古いものだと述べています2。

    この体質は、酪農が始まったあとに広がったものです。約7,500年前の中央ヨーロッパあたりが起点と推定されています。体質の分布に、歴史がそのまま残っている形です。

    牛乳で不調になることは、その人の体に問題があることを意味しません。祖先がどこで暮らしていたかの反映という側面があります。

    同じ体質でも、症状の出方が違う理由

    ここまでは遺伝子の話ですが、実際の症状はそれだけでは決まりません。

    ミッセルヴィッツらは2019年、Gut に乳糖吸収不良と乳糖不耐症についての総説を発表しています。そこでは、乳糖不耐症が起こる可能性は乳糖の量・ラクターゼの発現・腸内細菌によって決まる、と整理されています1。遺伝子は3つのうちの1つでしかありません。

    ひとつは量の問題です。ラクターゼの働きが弱くても、少量なら処理できます。コップ1杯で症状が出る人もいれば、コーヒーに入れる程度なら問題ない人もいる。免疫が関わる食物アレルギーとは違い、不耐症は量に依存しやすいのです。

    もうひとつは、一緒に食べるものです。食事と一緒に摂ると、胃からの排出が緩やかになり、症状が出にくくなることが知られています。

    そして、分解されなかった乳糖は大腸に届き、腸内細菌によって発酵されます。ここで生じるガスや短鎖脂肪酸が症状に関わります。だとすれば、どういう細菌がいるかによって出方が変わることになります。実際、乳製品を継続して摂ることで症状が軽くなる場合があると報告されていますが、この適応の仕組みや再現性については、まだ検討の途上にあります。

    もうひとつ、乳糖の消化とは別の経路があります。ミッセルヴィッツらの総説は、不安や過敏性腸症候群に伴う内臓知覚過敏がある人は、乳糖の消化能力とは独立に、乳糖不耐症の症状が出るリスクが高いと述べています1。同じ量のガスが発生しても、それをどれくらい強く感じるかには個人差がある、ということになります。

    これも踏まえたうえで、同じ総説はこうも書いています。自己申告の乳糖不耐と、客観的な検査所見と、食事を変えたときの実際の結果。この三つの関連にはばらつきがある1。「牛乳が合わない気がする」という実感が、そのまま検査結果と一致するとは限りません。逆もまた同じです。

    確かめようがある、という利点

    乳糖不耐症について特筆すべきなのは、機序が分かっていて、確認する手段があることです。

    水素呼気試験のような検査もありますし、自分で確かめる余地も大きい。乳糖を含む食品を一定期間やめてみて、症状が変わるかを見る。戻して再現するかを見る。量を変えて閾値を探る。

    一度に複数のことを変えないという原則はここでも効いてきます。牛乳とパンを同時にやめれば、どちらが効いたのか分からなくなります。

    また、乳製品を完全にやめる前に考えたいのは、カルシウムなど他の栄養をどう補うかです。多くの場合、量を減らす、発酵乳製品に変える、乳糖を分解した製品を使う、といった調整で対応できます。全部やめる必要があるかどうかは、閾値を確かめてから決めても遅くありません。

    同じ構造の糖が、ほかにもある

    乳糖は二糖類です。小腸で吸収されずに大腸へ届き、腸内細菌が発酵してガスを出し、浸透圧で水分を引き込む——この構造を持つ糖は、ほかにもあります。オリゴ糖、単糖類、糖アルコール。まとめてFODMAPと呼ばれます。

    日本消化器病学会のガイドラインは、乳糖不耐症の患者についてラクトース制限食を6週間摂取することで症状が有意に改善したという報告を挙げています。乳糖を外して症状が軽くなるかどうかは、確かめられる範囲にあります。

    「合わない」の中身が分かるということ

    この記事で見てきたものを並べると、乳糖不耐症は珍しい位置にいます。酵素の名前、遺伝子の位置、症状が出る量、確かめる検査。全部そろっています。

    「合わない食品」の多くは、ここまでそろいません。「遅延型フードアレルギー検査」が示しているのは、その食品にさらされたことまでで、欧州アレルギー臨床免疫学会は不耐症の診断には使えないとしています。

    だから、合わない食品の候補が何十品目も並んだときにやることは、この記事と同じ形に近づけることです。1品目を選ぶ。量を決める。やめて、戻す。期限を先に決めて、変化を比べる。

    乳糖不耐症で分かっているのは「乳製品がダメ」ではなく、「この量までなら出ない」という線でした。他の食品でも、探しているのは同じ形の線です。

    食べ物で不調が出るとき、原因が特定できることは実は多くありません。多くは、症状のパターンから推測するところで止まります。

    乳糖不耐症は、その中で例外的に、酵素の働き、遺伝子の多型、症状が出る条件、確認の手段が揃っています。だからこそ、他の「なんとなく合わない」と同列に置かないほうがいいでしょう。

    同じものを食べて反応が違うという現象そのものは、乳糖に限りません。量・消化吸収・腸内細菌・感じ方という4つの要素のうち、乳糖不耐症は消化吸収の部分がはっきり分かっている例にあたります。アルコールを分解する酵素にも同じ構造があり、日本人の4割強が働きの低い側にいます。

    そして冒頭で見たとおり、大人になって酵素が減ることのほうが、哺乳類としては標準的な経過でした。自分の体を標準から外れたものとして扱うか、単に違うものとして扱うか。そこで、その後の対応も変わってきます。

    確かめられるのは、量との関係です。牛乳をやめるかどうかの前に、コップ半分なら平気か、1杯で来るかを分けます。ヨーグルトやチーズでは出ないなら、乳糖の量が違うためです。

    そして牛乳を減らすなら、カルシウムの供給源が1つ抜けます。日本人の平均摂取量は推奨量の65%(成人男性)で、もともと余裕がありません。小魚・大豆製品・青菜のどれかで置き換えるところまでを、同時に決めます。

    参考文献・参考資料

    1. Misselwitz B, Butter M, Verbeke K, Fox MR. Update on lactose malabsorption and intolerance: pathogenesis, diagnosis and clinical management. Gut. 2019;68(11):2080-2091. doi:10.1136/gutjnl-2019-318404 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/31427404/
    2. Enattah NS, Sahi T, Savilahti E, Terwilliger JD, Peltonen L, Järvelä I. Identification of a variant associated with adult-type hypolactasia. Nature Genetics. 2002;30(2):233-237. doi:10.1038/ng826 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/11788828/
    3. 【撤回済み】Storhaug CL, Fosse SK, Fadnes LT. Country, regional, and global estimates for lactose malabsorption in adults: a systematic review and meta-analysis. The Lancet Gastroenterology & Hepatology. 2017;2(10):738-746. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28690131/
      撤回通知:Retraction—Country, regional, and global estimates for lactose malabsorption in adults. The Lancet Gastroenterology & Hepatology. 2025;10(1):13. doi:10.1016/S2468-1253(24)00398-4 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/39674208/

    本記事は機序と研究状況の整理であり、個別の診断・治療に代わるものではありません。

  • 同じものを食べても反応が違う。自分の場合をどう知るか

    同じものを食べても反応が違う。自分の場合をどう知るか

    健康の情報は、たいてい「人は」という主語で語られます。ただ、その平均どおりに反応する人が何割いるかは別の話です。自分の場合をどう確かめるかを整理します。

    集団を調べれば平均は出ますし、平均は判断の出発点になります。ただ、その平均どおりに反応する人が何割いるかは、別の話です。「自分の体を知る」が意味を持つのは、このずれのところです。

    同じものを食べても、同じことが起きるとは限らない

    この話を具体的にしてくれる研究があります。

    ゼエビらは2015年、800人を対象に連続血糖モニタリングを行い、46,898食分の食後血糖の反応を測定しました。そこで観察されたのは、同一の食事に対する反応が人によって大きく異なるということでした。著者らはこの結果から、普遍的な食事推奨の有用性には限りがあるかもしれない、と述べています1。

    ある人にとって血糖を大きく上げる食品が、別の人ではそれほど上げない。パンとバナナのどちらが上げやすいかさえ、人によって逆になりうるのです。「この食品はGI値が高い」という一般則が、個人の反応をそのまま説明するわけではありませんでした。

    研究チームはさらに、血液指標・食習慣・身体計測・身体活動・腸内細菌のデータを統合する機械学習アルゴリズムを作り、個人ごとの食後血糖反応を予測できることを示しました。この予測は独立した100人のコホートでも検証され、アルゴリズムに基づく盲検無作為化介入では、食後の血糖の上がり方がはっきり小さくなり、腸内細菌の構成にも一貫した変化が見られました1。

    ここで気をつけたいのは、この研究が示したのは「個別化は可能かもしれない」という方向性であって、「個別化された食事が長期の健康を改善する」ことではない、という点です。測られたのは食後血糖の反応であり、観察期間も限られています。個別化栄養は有望ですが、確立した実践にはまだなっていません。

    平均は、誰のものでもない

    この隙間は、健康診断の基準範囲にもそのまま現れます。「異常なし」が答えている問いは、思っているより狭いものです。

    この現象自体は、血糖に限った話ではありません。

    集団の平均値は、その集団を要約するには優れていますが、特定の一人を表しているわけではありません。全員が平均から少しずつ違う方向にずれていれば、平均に近い人はむしろ少数になります。

    研究が集団を対象にするのは、そうしないと偶然と区別できないからです。個人の変化だけを見ていては、それが介入によるものか、たまたまかを判定できません。集団を見る方法論は必然であって、その結果として「平均の人」という架空の人物が生まれます。

    だから「エビデンスに基づく」ことと「自分に合っている」ことは、自動的には重なりません。EBMの定義に患者自身の価値観が含まれていたのは、この隙間を埋める部分が最初から必要だと分かっていたからでしょう。

    では、個人について何が分かるのか

    個人の反応を確かめる方法論も、実は存在します。

    N-of-1試験と呼ばれるもので、一人の患者の中で、複数の治療期間を無作為な順序で繰り返し、その人自身における効果を比較します。ドゥアンらは2013年、この手法を患者中心の比較効果研究のための実践的な臨床意思決定の方法論として整理しています2。

    集団のRCTが「平均としてどうか」を答えるのに対し、N-of-1試験は「この人にとってどうか」を答えようとします。同じ無作為化という道具を、対象を変えて使っています。

    もっとも、この方法が使えるのは条件が限られます。症状が慢性的で安定していること、効果が比較的早く現れて中止すれば戻ること、繰り返しの測定ができること。急性の病気や、不可逆な介入には向きません。

    この個人差は、日常の体感にも現れます。食後に眠くなるかどうかが人によって違うのも、同じ話の一部です。

    今日から自分の反応を知る、素朴な方法

    N-of-1試験を自分でやるのは現実的ではありません。ただ、その考え方の一部は日常に持ち込めます。

    体質の違いがはっきり分かっている例としては乳糖不耐症があり、自分で閾値を確かめる余地も比較的大きい領域です。手順としては、次のようなことが効いてきます。ひとつは、一度に一つだけ変えること。サプリメントと運動と睡眠時間を同時に変えれば、何が効いたのかは分からなくなります。これは関連と因果を分ける話と同じ構造で、変数が増えるほど切り分けは難しくなります。

    もうひとつは、比較できる期間を持つことです。「調子がいい」だけでは、何と比べていいのかが分かりません。やめてみる期間、戻してみる期間があると、変化の輪郭が見えてきます。

    そして、変化には時間差があります。食後すぐに出るものもあれば、数日後に出るものもある。記録に時刻が入っていると、この差に気づけます。

    知ることの限界も、知っておく

    ここまで書いておいてなんですが、自分の体について分かることには限界があります。

    体調は多くの要因で動きます。季節、睡眠、ストレス、感染、加齢。ある変化を一つの原因に帰属させたくなりますが、たいていは複数が重なっています。

    測れるものが、大事なものとは限らないという問題もあります。数値化しやすい指標に注意が向き、数値化しにくい変化が見落とされます。体重や血糖は測れますが、集中が続くかどうかや、朝起きたときの感覚は測りにくいものです。後者のほうが本人にとって重要な場合もあります。

    そして、記録すること自体が負担になることもあります。すべてを測ろうとすると、体調に注意を向け続けることになり、それが疲れを生む場合がある。何を測らないかを決めることも、同じくらい実務的な判断になります。

    個人差の中身が、分かっている部分もある

    「人によって違う」は、たいてい曖昧なまま終わります。ただ、中身が酵素名と頻度まで分かっている領域もあります。

    日本人1,003人について5つの薬物代謝酵素の遺伝子型を調べた研究では、理論上483通りの組み合わせのうち139通りが実際に見つかりました。お酒の処理についても、日本人の4割強が働きの弱い側にいることが分かっています。

    個人差があると分かっていることは、「だから確かめる意味がある」という向きに効きます。平均の話が自分に当てはまらないことは、実際にあります。

    「自分の体を知る」を、少し具体的にする

    一つ変えて確かめるときに、抜けやすいものが1つあります。いつまでやるかです。

    医療の中には、その形が実際にあります。皮膚科が金属制限食を指導するときは「2ヶ月続けて無効であれば速やかに中止する」と決められています3。始めるときに、やめる条件が一緒に決まっている。

    期間の長さは、変えるものによって変わります。体内の水銀の量が半分になるまでは約2ヶ月。睡眠の変化なら、もっと短い単位で見えます。

    変えるもの・見るもの・いつまで。この3つが決まっていると、効かなかったときに戻せます。決まっていないと、効いたかどうかも分からないまま続きます。

    結局のところ、この言葉が指しうるものは複数あります。

    検査の数値を知ること。日々の変化のパターンを知ること。何をすると調子が崩れやすいかを知ること。医療者に説明できる形で症状を把握していること。どれも「知る」ですが、必要な手間も、得られるものも違います。

    どれが自分にとって役に立つかは、いま何に困っているかによります。困っていることが特にないなら、網羅的に測る必要もありません。逆に、繰り返す不調があるなら、網羅的に測るより、その一点だけを丁寧に記録するほうが役に立ちます。たとえば頭痛なら、薬を飲んだ日にしるしをつけるだけで、診療の判断に直接使える記録になります。

    参考文献・参考資料

    1. Zeevi D, Korem T, Zmora N, et al. Personalized Nutrition by Prediction of Glycemic Responses. Cell. 2015;163(5):1079-1094. doi:10.1016/j.cell.2015.11.001 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/26590418/
    2. Duan N, Kravitz RL, Schmid CH. Single-patient (n-of-1) trials: a pragmatic clinical decision methodology for patient-centered comparative effectiveness research. Journal of Clinical Epidemiology. 2013;66(8 Suppl):S21-S28. doi:10.1016/j.jclinepi.2013.04.006 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23849149/
    3. 足立厚子「金属アレルギーの対処法〜全身型金属アレルギーを中心に〜」アレルギー 2020;69(3):169-173. https://www.jstage.jst.go.jp/article/arerugi/69/3/69_169/_pdf

    本記事は考え方の整理であり、特定の検査・食事法の推奨や、個別の診断・治療に代わるものではありません。

  • 統合医療かどうかは、手法ではなく使い方で決まる

    統合医療かどうかは、手法ではなく使い方で決まる

    「統合医療」は、使う人によって指すものが違う言葉です。公的機関の定義から、何を含み、何を含まないのかを確かめます。

    この言葉は、使う人によって指すものが違います。西洋医学に代わる何か、と受け取る人もいれば、東洋医学のことだと考える人もいる。実際にはどちらとも少し違っていて、この言葉には比較的はっきりした定義があります。

    用語を整理することは、それ自体が目的ではありません。ただ、何を指しているのかが曖昧なままだと、期待するものと実際に受けられるものがずれます。ここでは、公的機関がこの言葉をどう定義しているかを確認しておきます。

    「一緒に使う」か「代わりに使う」か

    米国国立補完統合衛生センター(NCCIH)は、この分野の用語を整理した文書を公開しています。そこでの区別は、驚くほど単純です。

    主流でないアプローチを、通常医療と一緒に使う場合、それは「補完的(complementary)」。通常医療の代わりに使う場合は「代替的(alternative)」。分ける基準は、手法の中身ではなく、通常医療との関係です1。

    同じ鍼灸でも、標準的な治療と併用すれば補完的であり、標準治療をやめて代わりに行えば代替的になります。呼び名を決めているのは手法ではなく、標準治療と一緒に使うか、代わりに使うかです。

    そのうえで「統合的ヘルスケア(integrative health)」は、通常医療と補完的アプローチを協調のとれたかたちで結びつけるものとされています。複数の介入を組み合わせること、そして人を全体として捉えるケアを目指すことが強調されています1。

    ここから分かるのは、統合医療が「通常医療を置き換えるもの」としては定義されていない、ということです。定義上、通常医療は前提として含まれています。

    何が含まれるのか

    NCCIHは補完的アプローチを、主にどこから働きかけるかで三つに分けています。ハーブ・ビタミン・サプリメント・プロバイオティクスなどの栄養的なもの、マインドフルネスなどの心理的なもの、マッサージや脊椎マニピュレーションなどの身体的なもの1。

    加えて、心理と身体を組み合わせたもの(ヨガ、太極拳、鍼灸)、心理と栄養を組み合わせたもの(マインドフルな食事)といった複合的な分類も置かれています1。

    この一覧を見て気づくのは、範囲がかなり広いことです。科学的な検討が進んでいるものと、ほとんど検証されていないものが、同じ枠の中に同居しています。「統合医療にはエビデンスがある/ない」という言い方が噛み合わないのは、これが特定の手法を指す言葉ではなく、使い方の呼び名だからです。

    「西洋医学 対 東洋医学」で考えると、何が見えなくなるか

    日本では、この分野が東西の対立として語られることが多くあります。近代医学と伝統医学、部分を診る医学と全体を診る医学、というように。

    この対比が広まった理由は分かります。実際、身体をどう捉えるかについて、体系ごとの違いはあります。ただ、この図式を前提にすると、いくつか見落としが生じます。

    ひとつは、上で見た定義が地理や伝統ではなく、通常医療との関係で線を引いていること。マインドフルネスも脊椎マニピュレーションもサプリメントも、東洋のものではありません。

    もうひとつは、検証のされ方が体系ごとにまとまっているわけではないこと。漢方の中にも、比較的検討が進んでいるものとそうでないものがあります。近代医学の中にも、高い確実性の根拠を欠く介入は多く残っています。確からしさは体系の名前ではなく、一つひとつの方法ごとに違います。

    三つめは、対立図式にすると「どちらを選ぶか」という問いになってしまうこと。定義上、統合医療は選択の問題ではなく、組み合わせ方の問題です。

    期待と実際のあいだ

    日本では、厚生労働省が「統合医療」に関する情報発信事業(eJIM)を運営し、補完・代替療法とどう向き合い利用したらよいのかを考えるための、エビデンスに基づいた情報を紹介しています2。公的機関がこうした情報提供を行っていること自体が、この領域の性質を表しています。すでに使っている人がいる。だから、勧めるのでも禁じるのでもなく、判断できるだけの情報を出す。そういう立場です。

    その立場は、eJIM自身の3分の解説でも確かめられます。


    実際、統合医療に関心を持つ理由は人によってかなり違います。標準治療で十分に改善しない症状がある。副作用の負担が大きい。数値だけでなく生活全体を見てほしい。原因がはっきりしないまま経過している。

    これらはどれも切実な動機で、否定されるべきものではありません。ただ、動機が切実であることと、選んだ方法が効くことは別の話になります。

    何かを試して調子が良くなったとき、それがその方法に固有の効果なのかどうかは、考えてみると意外に切り分けが難しいものです。ここで働きやすいのが、確実性への期待でしょう。標準的な医療で「はっきりしない」と言われた人にとって、明快な説明を提示してくれる場所は魅力的に映ります。ただ、説明が明快であることと、根拠が強いことは関係がありません。むしろ、まだ分かっていない領域ほど、断定的な説明が現れやすいのです。

    統合医療の中にも、そういう語られ方をするものがあります。定義に照らせば通常医療と協調するはずのものが、実際には代わりに使われている場合もあります。

    確かめられそうなこと

    何かを検討するとき、確認しやすい点がいくつかあります。通常医療と併用する前提になっているか。標準的な治療をやめることが条件になっていれば、それは定義上「代替的」であって統合的ではありません。

    主治医と共有できる形になっているか。何を、どれくらい、いつから使っているかを伝えられる状態なら、相互作用や重複を確認できます。主治医に言いにくいと感じるなら、なぜそれを使っているのかが自分の中でも整理できていない可能性があります。

    そして、その手法について何がどこまで調べられているか。同じ「統合医療」の枠にあっても、検証の進み具合はまったく違います。枠ではなく、個々の手法で見るしかありません。

    言葉が広いままだと、判断もできない

    統合医療という言葉は、幅が広い。だからこそ、この言葉のまま賛成も反対もできません。含まれているものが違いすぎるからです。

    この考え方が、日本の診療ガイドラインの側から求められている例もあります。起立性調節障害は身体疾患に分類されたうえで、心理社会的な要因を含めて包括的に評価することが求められています。身体か心かで分けない、という姿勢がガイドラインに書かれている珍しい場面です。

    NCCIHの定義に立ち返れば、この言葉が言っているのは「組み合わせて、協調させる」という一点です。何を組み合わせるかは、そこには含まれていません。中身は、その都度こちらが確かめることになります。

    いま関心を持っている方法があるなら、それは通常医療と並べて使うものとして提示されているでしょうか。それとも、代わりに使うものとして語られているでしょうか。この一点を見るだけでも、置かれている場所は見えてきます。

    この媒体が、どこに立っているか

    この記事の基準は、この媒体自身にも当てはめます。

    me:LABは、バイオレゾナンス検査(RESONA-LAB)とサプリメントを提供する株式会社bio medicalが運営しています。同社の監修医師は、表参道ウェルネス統合医療クリニック院長の森嶌淳友医師です(運営について)。

    だから、この記事で書いた3つの確認点は、そのまま自社に返ってきます。通常医療と併用する前提になっているか。主治医と共有できる形になっているか。何がどこまで調べられているか。

    この媒体で、書いていることと書いていないこと
    立場
    検査結果の医学的解釈 書きません。報告書自身が「疾病の診断や治療を目的とするものではない」と記しています
    標準的な治療の代わり 置きません。服用中の薬を自分の判断で減らさないよう、繰り返し書いています
    書いているもの 公的機関・学会・教科書にある数字と、その出どころ。入口・上限・半減期のように、確かめられる形のもの
    書けないもの 特定の製品が何かを改善するという主張。その形式の根拠が存在しないため

    「統合医療だから良い」も「統合医療だから怪しい」も、この記事の立場ではありません。枠ではなく、個々の手法について、どこまで数字があるかを見る。それだけです。

    確かめ方は2つです。まず、いま使っているものが標準治療と併用なのか、代わりなのか。ここで補完的か代替的かが決まります。呼び名を決めているのは手法ではなく、この関係のほうでした。

    次に、その手法単体について誰を対象に、何と比べて、どれくらいの差なのかを探します。「統合医療」という枠に答えはありません。答えがあるのは、鍼なら鍼、サプリメントならその成分の側です。

    参考文献・参考資料

    1. National Center for Complementary and Integrative Health (NCCIH), National Institutes of Health. Complementary, Alternative, or Integrative Health: What’s In a Name? 2021年4月更新. https://www.nccih.nih.gov/health/complementary-alternative-or-integrative-health-whats-in-a-name
    2. 厚生労働省『「統合医療」に係る情報発信等推進事業』(eJIM)https://www.ejim.mhlw.go.jp/

    本記事は用語の整理であり、特定の療法の推奨や否定、個別の診断・治療に代わるものではありません。

  • 「遅延型フードアレルギー検査」を受ける価値はあるか

    「遅延型フードアレルギー検査」を受ける価値はあるか

    食べ物による不調は、免疫が関わるものと、関わらないものに分かれます。前者がアレルギー、後者が不耐症。原因が違うので、調べ方も対応も別です。

    そして「遅延型フードアレルギー検査」が示しているのは、その食品にさらされたことです。欧州アレルギー臨床免疫学会は、これを生理的な反応であるとし、不耐症の診断には使えないとしています。

    ある食べ物で決まって調子が悪くなる。お腹が張る、頭が重くなる、肌が荒れる。その原因を絞るには、まずこの分かれ方から入ります。

    大きな枠から見ていく

    食べ物によって起きる好ましくない反応は、まとめて「食物過敏(food hypersensitivity)」と呼ばれます。この大きな枠が、免疫が関与するかどうかで二つに分かれます。

    免疫の反応が関わっている場合が「食物アレルギー」で、関わっていない場合が「食物不耐症」です。同じように「合わない」という体験でも、体の中で起きていることは別物になります。

    欧州アレルギー・臨床免疫学会(EAACI)が2023年に発表した命名法に関する position paper では、過敏反応がIgEを介するもの、IgEを介さない細胞性のもの(Tリンパ球などが関わる)、そして免疫機序を伴わない非アレルギー性のもの、に区分されています1。

    食べ物による不調の大きな分かれ方
    食物アレルギー 食物不耐症
    免疫の関与 ある ない
    主な機序 IgE を介する反応/IgE を介さない細胞性の反応/両者の混合 酵素の不足、薬理作用、消化・吸収の問題など
    量との関係 ごく少量でも起きうる 量に依存することが多い
    重篤な反応 アナフィラキシーが起こりうる 通常は生命に関わらない

    この違いのうち、実生活で効いてくるのは「量との関係」かもしれません。少量なら平気で、たくさん食べると具合が悪くなる、という経験は不耐症の側で起きやすいものです。逆に、ごくわずかでも反応が出る場合は、免疫が関わっている可能性を考えることになります。

    ただし、これはあくまで傾向であって、この違いだけで自己判断するのは難しいところです。アレルギーの診断には、症状の経過を丁寧に聞き取ったうえで、検査や、必要に応じて負荷試験を組み合わせる手順があります。

    不耐症は、ひとつの現象ではない

    「食物不耐症」という言葉は、免疫が関わらないものをまとめて指しているだけで、中身は一様ではありません。

    代表的なのは、乳糖を分解する酵素の働きが弱いために起きる乳糖不耐症です。これは酵素の問題で、機序がはっきりしています。

    食品に含まれる特定の成分が薬理的に作用して症状を起こす場合もあります。消化や吸収のしくみに関わる場合もあります。腸内で発酵しやすい糖質が関わっているとする考え方もありますが、腸内細菌叢について何がどこまで分かっているかは、それ自体がまだ流動的です。

    機序が特定できているものと、症状のパターンから名前がついているだけのものが、同じ「不耐症」という言葉で並んでいます。この点は知っておくと、情報を読むときの助けになります。

    「遅延型フードアレルギー検査」を受ける前に知ること

    ここは触れておく必要があります。食べ物と不調の関係を調べたい人が、まず出会いやすい検査だからです。

    血液中の食物特異的IgG、あるいはIgG4を測って「隠れたアレルギー」を調べるとされる検査が、自費で広く提供されています。ただし、この検査については主要な学会が明確な見解を出しています。

    EAACIのタスクフォースは2008年、食物に対するIgG4検査を診断ツールとして推奨しないという報告を発表しました。報告によれば、食物特異的IgG4の存在は、その人の体が食品成分に繰り返しさらされ、免疫系がそれを異種タンパク質として認識したことを示しています。それは過敏を引き起こす因子ではなく、むしろ制御性T細胞の活動と結びついた免疫学的な寛容の指標と考えられます2。

    結論として、食物特異的IgG4は食物アレルギーや不耐症が差し迫っていることを示すものではなく、食品成分への曝露後の生理的な反応であり、したがって食物アレルギーや不耐症の検査として無関係であり、食物関連の訴えがある場合に行うべきではない、とされています2。

    カナダアレルギー臨床免疫学会も2012年に同様の立場表明を出しています3。

    原因の分からない不調が続けば、何かに当たりを付けたくなります。ただ、この検査が拾っているのは曝露です。食べたことがあるかどうかを見ているので、結果の一覧は「体に合わないもの」の一覧にはなりません。

    除去食を始める前に

    始める前に決めておくものが1つあります。やめる条件です。

    皮膚科が金属アレルギーで金属制限食を指導するときの記載が参考になります。「2ヶ月続けて無効であれば速やかに中止する」「厳格すぎる制限は微量元素欠乏症をきたす可能性があるため避ける」4。

    除去は、始めるより終えるほうが難しくなります。期限を先に決めておくと、効かなかったときに戻せます。

    特定の食品をやめる前に、二つ確かめます。

    実際、盲検下で確かめると、症状と「原因として名指しされた食品」の対応関係はしばしばずれます。除去を始める前に、その対応関係を疑う余地があります。

    検査結果や自己判断をもとに、特定の食品を長期間やめる人は少なくありません。ここには見落とされやすい負担があります。

    ひとつは栄養面の偏りです。乳製品や小麦、卵といった食品群をまとめて外すと、補う設計をしないと不足が生じうるのです。

    もうひとつは、生活上の負担でしょう。外食も、人との食事も、献立を人に頼むことも難しくなります。EAACIの報告も、臨床的な裏づけのない検査で診断を下すことが、患者の生活の質に深刻な悪影響を及ぼしうると指摘しています2。

    そして、複数の食品を同時にやめると、何が効いたのかが分からなくなります。原因を探すはずが、かえって特定しにくくなる。ひとつずつ変えることの意味は、関連と因果を分ける話と同じ構造にあります。

    まだ整理されていない領域

    正直なところ、この分野には未確定の部分が広く残っています。

    機序が特定されていない不耐症について、どう診断するかの標準的な手順は確立していません。多くは、食べたときの症状の記録と、除去と再導入を管理しながら行う方法に頼っています。客観的な検査で決着がつく領域ではないのです。

    症状には心理的・生理的な要因も絡むため、食品そのものの影響だけを取り出すのは簡単ではありません。二重盲検での食品負荷試験が使われるのは、そのためです。

    体験そのものは実際に起きています。分かっていないのは、その仕組みのほうです。

    記録が、いちばん確かな材料になる

    検査で答えが出ない以上、残るのは自分の記録です。何をどれだけ食べて、どれくらい経ってから、どんな症状が、どのくらい続いたか。

    面倒ですが、この粒度まで来ると自分で判断できます。「小麦が合わない気がする」では次の一手が決まりません。「うどんを一人前食べた2〜3時間後に、決まって腹部の張りが出る。少量のパンでは出ない」まで書ければ、次に確かめるのが量なのか、小麦そのものなのかが決まります。

    量との関係、時間差、再現性。この三つが分かるだけで、免疫が関わる話なのか、そうでないのかの見当もつきやすくなります。

    量・時間差・再現性。この三つは、検査なしで自分で詰められます。検査結果をそのまま受け取るより、こちらのほうが確かです。

    参考文献・参考資料

    1. Jutel M, Agache I, Zemelka-Wiacek M, et al. Nomenclature of allergic diseases and hypersensitivity reactions: Adapted to modern needs: An EAACI position paper. Allergy. 2023;78(11):2851-2874. doi:10.1111/all.15889 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/37814905/
    2. Stapel SO, Asero R, Ballmer-Weber BK, et al. Testing for IgG4 against foods is not recommended as a diagnostic tool: EAACI Task Force Report. Allergy. 2008;63(7):793-796. doi:10.1111/j.1398-9995.2008.01705.x https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/18489614/
    3. Carr S, Chan E, Lavine E, Moote W. CSACI Position statement on the testing of food-specific IgG. Allergy, Asthma & Clinical Immunology. 2012;8(1):12. doi:10.1186/1710-1492-8-12 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3443017/
    4. 足立厚子「金属アレルギーの対処法〜全身型金属アレルギーを中心に〜」アレルギー 2020;69(3):169-173. https://www.jstage.jst.go.jp/article/arerugi/69/3/69_169/_pdf

    本記事は、アレルギーと不耐症という用語と、それぞれの検査の整理です。個別の診断・治療に代わるものではありません。

  • 「腸内環境を整える」で、実際に何をすればいいか

    「腸内環境を整える」で、実際に何をすればいいか

    「腸内環境を整える」とよく言われます。ただ、整った状態が何を指すのかは、たいてい書かれていません。研究がどこまで来ていて、何なら言えるのかを整理します。

    この言い方は、ヨーグルトの広告にも、食物繊維の話にも、体調が優れないときの助言にも出てきます。

    ただ、整えた先にどういう状態を目指しているのかは、たいてい書かれていません。何が「整った」状態なのか。それは誰が、どうやって決めているのか。この問いは素朴に見えて、研究者のあいだでも決着していません。

    「健康な腸内細菌叢」の定義が、まだない

    「健康な腸内細菌叢」に、合意された定義はまだありません。

    「健康なマイクロバイオームとは何か」を正面から検討した2021年の総説は、こう締めくくっています。重要で一見単純に見える問いだが、その答えは複雑で、絶えず精緻化を必要としている1。2024年の検討も同じ困難を指摘しました2。

    理由のひとつは、比べる相手が定まらないことです。見かけ上健康な人どうしでも細菌叢はかなり違い、年齢・食事・薬・住む場所でも変わります1。もうひとつは、まだ見えていない住人がいることです。腸内にはウイルスや真菌など、特徴づけられていない微生物が多数いて、それらの役割はほとんど分かっていません1。

    「どういう菌がいるか」から「何をしているか」へ

    定義は決まっていませんが、研究は止まっていません。「どういう菌がいるか」ではなく「何をしているか」で捉えようとする方向が、近年の一つの流れになっています。

    腸内細菌は誰がいるかは人によって大きく違うが、何をしているかはそれほど違わないことを示す比較図
    菌の種類の構成は人によって大きく違う一方、その集団が果たしている機能の構成は個人差が小さいことが、複数の解析で報告されています。だから「誰がいるか」より「何をしているか」で見るという発想が出てきました。

    もう一つよく用いられるのが、外部からの撹乱にどれだけ耐え、元の状態にどれだけ戻れるかという見方です。抗菌薬や食生活の急変といった揺さぶりを受けたあと、どの程度復元するか。どんな菌がいるかより、揺さぶられたあとに元へ戻れるかを見る、ということです。

    いずれも有力な考え方ですが、確立した基準として使えるところまでは来ていません。「あなたの腸内環境は整っている/いない」を判定する物差しは、いまのところないのです。

    「何をしているか」で見るとはどういうことか。腸内細菌研究の内藤裕二教授が、短鎖脂肪酸と胆汁酸を軸に12分で話しています。


    「善玉菌・悪玉菌」で考えると、何を見落とすか

    日本で広く使われているこの区分は、分かりやすく、長く使われてきました。ただ、実際の菌はそれほど単純に振る舞いません。

    同じ菌種でも、株が違えば性質が変わります。宿主の状態や、共存する他の菌との関係によって、働きが変わることもあります。同じ菌が、条件によって役に立ったりそうでなかったりします。善玉・悪玉という固定的な二分法は、そうした条件依存性を捨象しています。この分け方が研究の側でどう問い直されているかは別に詳しく書きました。

    そう考えたくなる理由はよく分かります。腸の中は見えないし、単純な区分がないと話しようがない。ただ、この区分を前提にすると「善玉菌を増やせば整う」という結論に自動的につながってしまいます。実際には、増やすべき菌が一意に決まっていないことのほうが、現状に近いのです。

    プロバイオティクスは、菌株ごとに別のもの

    ここが、製品を選ぶときにいちばん効いてきます。

    国際プロバイオティクス・プレバイオティクス学会(ISAPP)が2014年にまとめた合意声明は、プロバイオティクスを「適切な量を摂取したときに宿主に健康上の利益をもたらす生きた微生物」と定義しました3。

    この声明が強調しているのが、効果の菌株特異性です。病原体の抑制のように多くの株に共通する機構もありますが、それ以外の効果は株ごとに異なるため、株それぞれについて根拠が必要になります。同時にパネルは、乳酸や酢酸といった有機酸の産生のように、ビフィズス菌属や乳酸桿菌属の大半の種に共通する機構もあることを認めています3。

    また、プロバイオティクスと呼ぶには、意図された用途において安全であり、株レベルで同定できる明確な実体でなければなりません。定義されていない混合物は含まれないのです3。

    ここから導かれることは、日常の判断にそのまま効きます。ある菌株で示された結果は、同じ菌種の別の株には自動的には当てはまりません。「乳酸菌がいい」という言い方は、株の違いをまたいだ一般化になっています。

    製品を見るときに確かめられるのは、菌種名だけでなく株名まで書かれているかどうかです。株名まで特定できれば、その株について何が調べられているのかを辿れます。

    まだ分かっていないこと

    この分野は動きが速く、確定した部分より流動的な部分のほうが多くあります。とくに大きいのが二つです。

    原因なのか、結果なのか。細菌叢の変化が病気を起こしているのか、病気の結果として変化しているのかは、多くの疾患でまだ決着していません。関連が見つかることと、原因だと分かることのあいだの距離が、この領域には特に色濃く出ます。

    誰に効くのかが読めない。同じ食品を摂っても、細菌叢の反応は人によって異なることが観察されています。事前に予測する方法は、まだ確立していません。

    それでも言えそうなこと

    ここまで「決まっていない」が続きましたが、分かっていることもあります。

    食物繊維の摂取量が細菌叢の構成と代謝に影響することは、繰り返し観察されています。抗菌薬が一時的に大きな変化をもたらすことも分かっています。極端に偏った食事が細菌叢の多様性を下げることも報告があります。方向性としては、ある程度の一致があります。

    ただ、それは「特定の製品を摂れば整う」という主張とは別の話です。前者は集団で観察された傾向で、後者は個人への効果の約束になっています。

    言葉を、少しだけ具体的にしてみる

    もう1つ、「整える」の中に入れられていないのに、はっきり分かっている働きがあります。腸は、出口です。

    ニッケルの場合、経口で入った量のうち腸から吸収されるのは1〜10%で、90〜99%は吸収されずに便として出ていきます4。加えて、肝臓が処理して尿からは出せないと判断したものも、胆汁に乗って腸へ送られてきます。医学の教科書は、そこへ出されるものに重金属を名指しで挙げています。

    菌の構成が「良い状態」かは決着していませんが、通過が滞っているかどうかは、決着を待たずに分かります。国際的な診断基準は、回数・いきみ・硬さ・残便感など6項目で見ています。

    「腸内環境を整える」の中で、いま数字で確かめられるのはこちら側です。

    「腸内環境を整えたい」と思ったとき、その中身を一段具体的にできると、考えやすくなります。

    便通のことなのか、食後の張りのことなのか、体調全般のことなのか。特定の食品を食べたときに決まって起きる不調であれば、アレルギーと不耐症の区別から入ったほうが早い場合もあります。目指しているものが違えば、確かめるべき研究も変わります。「腸内環境」という一語で括られているあいだは、何が改善したのかも判定できません。

    そして、菌の名前で考えるより、食事の内容や薬の使用歴といった、自分で把握できることから見ていくほうが、いまの研究水準では確実です。細菌叢は結果として動くもので、直接つまみを回せる対象ではないからです。

    整えるという言葉は、どこかに正解の状態があることを前提にしています。研究の現状はまだそこまで来ていません。何を良くしたいのかを自分の言葉にするところから始めて、十分です。

    参考文献・参考資料

    1. Shanahan F, Ghosh TS, O’Toole PW. The Healthy Microbiome—What Is the Definition of a Healthy Gut Microbiome? Gastroenterology. 2021;160(2):483-494. doi:10.1053/j.gastro.2020.09.057 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33253682/
    2. Joos R, Boucher K, Lavelle A, et al. Examining the healthy human microbiome concept. Nature Reviews Microbiology. 2025;23(3):192-205. doi:10.1038/s41579-024-01107-0 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/39443812/
    3. Hill C, Guarner F, Reid G, et al. The International Scientific Association for Probiotics and Prebiotics consensus statement on the scope and appropriate use of the term probiotic. Nature Reviews Gastroenterology & Hepatology. 2014;11(8):506-514. doi:10.1038/nrgastro.2014.66 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24912386/
    4. 足立厚子「金属アレルギーの対処法〜全身型金属アレルギーを中心に〜」アレルギー 2020;69(3):169-173. https://www.jstage.jst.go.jp/article/arerugi/69/3/69_169/_pdf

    本記事は用語と研究状況の整理であり、特定の製品・食品の推奨や否定、個別の診断・治療に代わるものではありません。

  • 「デトックス」の広告を、どう見分けるか

    「デトックス」の広告を、どう見分けるか

    体が不要なものを処理する仕組みは実在します。そしてその働きは、材料で決まります。第II相でくっつける材料が足りなければ、処理は滞ります。

    つまり「出す力」は、汗や断食で上げるものではありません。足りていれば回り、足りなければ落ちる。断食で「臓器を休ませる」という発想が据わりが悪いのは、材料まで減るからです。

    一方、商品や施術の「デトックス」に物質名が書かれていないなら、出たかどうかは誰にも確かめられません。この二つは、同じものを指していません。どこで食い違うのかを見ていきます。

    体は、外から入ったものをどう扱っているのか

    食べ物や薬、環境中の化学物質など、体の外から入ってきた物質は、まとめて「異物」と呼ばれます。これらの多くは脂に溶けやすい性質を持っていて、そのままでは尿に混ぜて捨てられません。水に溶けにくいものは、腎臓でろ過されても再吸収されてしまいます。

    そこで体は、化学的に作り変えてから捨てるという方法をとっています。この作業を担う肝臓と腎臓が実際に何をしているのかは、別に整理しました。この一連の変換は生体内変換(biotransformation)と呼ばれ、大きく二つの段階に分けて説明されるのが一般的です1。

    第一相では、分子に手をかけて反応しやすい部分を作ります。第二相では、そこに別の分子をくっつけて水に溶けやすくします。こうして水に馴染む形になったものが、尿や胆汁を通って外へ出ていきます1。

    注意したいのは、第一相の生成物が必ずしも無害ではないことです。反応性が高まった中間体が、かえって毒性を持つ場合もあります。「解毒」という言葉から連想される、毒を無毒にする一方向の作業とは、少し様子が違います。処理経路であって、浄化装置ではありません。

    「毒素が溜まる」と言うとき、何が想定されているのか

    デトックスをうたう情報の多くは、体内に何が溜まっているのかを具体的に述べません。「毒素」「老廃物」といった言葉が使われますが、何という物質で、どこに、どれだけあるのかは示されないことが多いのです。

    実際に体内に蓄積し、測定もできる物質は存在します。残留性有機汚染物質と呼ばれる一群や、鉛・カドミウム・水銀・ヒ素といった重金属がそれにあたります。これらは脂肪組織や骨に長くとどまることが知られていて、量を測る方法もあります。

    そして、輪郭のない「毒素」と決定的に違う点がもう1つあります。これらには、時間の数字があります。

    厚生労働省は水銀について、「体内に取り込まれた水銀は代謝、排泄されます。その体内に取り込まれた量が半分にまで減少する期間は約2ヶ月です」と書いています4。だから同じ文書は、妊娠に気づくのが遅れた場合について「妊娠に気づいた段階から水銀の摂取量をコントロールすることで一定の効果が期待される」としています。

    ニッケルについても数字があります。経口で入った量のうち腸から吸収されるのは1〜10%で、90〜99%は便として出ていきます5。

    「溜まる」と「出る」は、物質ごとに速さが分かっているということです。何日で半分になるか、何割が吸収されるか、どこから出ていくか。輪郭のない「毒素」には、この数字がありません。入口ごとの一覧は別に整理しました。

    「溜まるものがある」こと自体は事実です。問題は、その具体的な物質の話と、輪郭のない「毒素」の話が、同じ言葉でつながれてしまうところにあります。

    デトックス食は、実際に検証されているのか

    市販のデトックス食については、これを支持する臨床的な根拠はきわめて乏しい。2015年に発表された総説の結論です2。デトックス食が必要なのか、何を含むのか、効果があるのか、危険はないのかを検討したものです。

    市販のデトックス食が肝臓の解毒を高め、残留性有機汚染物質を排出したとする臨床研究はいくつか存在します。ただし著者らによれば、それらは方法論に欠陥があり、標本数も小さいとされます。コリアンダー、海苔、オレストラといった食品に解毒作用を示唆する予備的な知見もありますが、その大半は動物で行われた研究です2。

    そして、著者らの知る限り、市販のデトックス食の有効性を評価した無作為化比較試験は行われていません2。

    ただし、市販品ではない定量された介入では、人での無作為化試験があります。大気汚染の大きい地域で291人を対象に行われた12週間の試験で、ブロッコリースプラウト飲料を飲んだ群はベンゼン由来の代謝物の尿中排泄が61%増えました。測っているのは尿に出た量で、健康アウトカムではありません。

    動物での結果を人に当てはめるときに何が起きるかは別の記事で扱いましたが、ここでも同じことが起きています。仕組みとしてありうる話が、人で確かめられないまま製品の説明になっています。

    汗については、意見が割れている

    「汗をかいて出す」という考え方は特に広く共有されています。この点は研究のあいだでも評価が分かれていて、片方だけを紹介すると誤解を招きます。

    シアーズらは2012年、ヒ素・カドミウム・鉛・水銀の汗中濃度を報告した研究を系統的に集め、122件から24件を選んで統合しました。結果として、曝露や体内蓄積が多い人では、汗の濃度が血漿や尿の濃度を上回ることが一般的であり、皮膚からの1日排泄量が尿からの排泄量に匹敵する、あるいは上回る場合があると報告しています3。

    著者らは、発汗は有害元素の排出手段として検討に値するとしつつ、適切な規模の試験を含む研究が、安全で効果的な手順を確立するために必要だと結論しています3。

    ただし、この総説自体が指摘しているとおり、対象集団も汗の採取方法も濃度も研究によって大きく異なります。汗に含まれる濃度が高いことと、体全体の負荷を意味のある程度まで下げられることは、別の問題です。汗として出る量には限りがあるので、濃度ではなく総量を見ないと判断できません。

    現時点で言えるのは、汗に有害元素が含まれること自体は複数の研究で観察されている、というところまでです。それが健康上の意味を持つ規模なのかについては、まだ答えが出ていません。

    そしてもう1つ、同じレビューが書いていることがあります。汗の金属は、血漿由来だけでなく、皮膚の層に由来するものも含まれます。だから「汗に出た」ことは、「体の中から出てきた」ことと同じではありません。

    肝臓と腎臓は、休ませるものなのか

    デトックスの説明でしばしば見かけるのが、「臓器を休ませる」という表現です。

    ただ、肝臓や腎臓は、断食や特定の食事によって作業を止めたり再開したりする器官ではありません。異物の処理は常時進行していて、むしろ栄養状態が悪くなると、第二相でくっつける材料のほうが足りなくなります。何かを控えることが処理能力を高めるのか、下げるのかは、控える内容によって変わります。

    この点についても、大規模な検証はほとんど行われていません。「休ませたほうがいい」も「休ませないほうがいい」も、現時点では十分な根拠を伴っていないのです。

    言葉を分けてみる

    ここまでを踏まえると、「デトックス」という一語が、少なくとも三つの別の話を抱えていることが見えてきます。

    「デトックス」という言葉が指しうる三つの水準
    水準 内容 現在の位置づけ
    生理学的な生体内変換 第一相・第二相を経て異物を水溶性にし排泄する仕組み 確立した知見。ただし常時働いており、外から起動するものではない
    特定物質の体内蓄積 重金属や残留性有機汚染物質など、測定可能な物質の負荷 存在は確認されている。減らす方法の有効性は検証途上
    商品としてのデトックス デトックス食・飲料・施術など ヒトでの無作為化比較試験は行われていない2

    この三つが同じ言葉でつながれているために、確立した生理学の話が、そのまま商品の裏づけとして流用されてしまいます。「肝臓には解毒の仕組みがある」は正しい。しかしそれは、ある製品がその仕組みを高めることの根拠にはなりません。

    では、どう考えておくか

    「たくさん飲んで出す」も、出どころは同じくらい曖昧です。その数字の出どころを辿ると、意外な経緯が見えてきます。

    デトックスをうたう情報に触れたとき、確かめられることは多くありません。それでも、何を出すと言っているのかは探せます。物質名が具体的に書かれているか。どこで測ったのか。比較対象があるのか。

    物質名が示されないまま「毒素」とだけ書かれている場合、その主張は検証のしようがない状態にあります。何が減ったかを測れないので、効いたかどうかを誰も確かめられません。検証されていないことと、効果がないことは別ですが、確かめようのない主張は、判断には使えません。

    気になる曝露が具体的にある場合──職業上の接触や、住環境の懸念など──は、汎用の「デトックス」ではなく、その物質の測定と評価が先になります。何を減らしたいのかがはっきりしていれば、方法の検討もできます。

    そして手をつける順番もあります。仕組みそのものは、物質名まで分かっています。第I相はシトクロムP450による酸化、第II相でグルクロン酸や硫酸をくっつけて水に溶ける形にする。そして水に溶けない物質は、胆汁に乗って便から出ていきます。

    入口ごとの数字と、出す側の仕組みは、入ってくるものと、出す力にまとめています。

    参考文献・参考資料

    1. Phang-Lyn S, Llerena VA. Biochemistry, Biotransformation. In: StatPearls [Internet]. Treasure Island (FL): StatPearls Publishing; 最終更新 2023年8月14日. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/books/NBK544353/
    2. Klein AV, Kiat H. Detox diets for toxin elimination and weight management: a critical review of the evidence. Journal of Human Nutrition and Dietetics. 2015;28(6):675-686. doi:10.1111/jhn.12286 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/25522674/
    3. Sears ME, Kerr KJ, Bray RI. Arsenic, cadmium, lead, and mercury in sweat: a systematic review. Journal of Environmental and Public Health. 2012;2012:184745. doi:10.1155/2012/184745 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3312275/
    4. 薬事・食品衛生審議会食品衛生分科会乳肉水産食品部会「妊婦への魚介類の摂食と水銀に関する注意事項」平成17年11月2日(平成22年6月1日改訂)およびQ&A https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/suigin/dl/index-b.pdf
    5. 足立厚子「金属アレルギーの対処法〜全身型金属アレルギーを中心に〜」アレルギー 2020;69(3):169-173. https://www.jstage.jst.go.jp/article/arerugi/69/3/69_169/_pdf

    本記事は用語と研究状況の整理であり、特定の製品・施術の推奨や否定、個別の診断・治療に代わるものではありません。

  • 答えが出ないまま調べる時間を、無駄にしないために

    答えが出ないまま調べる時間を、無駄にしないために

    健康について調べていると、答えのほうが先に来ます。「これがいい」「これはよくない」。検索すれば、たいてい何かしらの結論が待っています。

    けれど、答えを先に受け取ってしまうと、自分が何を知りたかったのかが分からないまま終わります。

    結論が出ないまま調べている時間は、無駄ではありません。その最中は、目当ての答え以外のものまで記憶に残りやすくなっています。

    そのことを示した実験から見ていきます。

    知りたいと思っているとき、脳では何が起きているのか

    好奇心は長らく、測りにくい主観として扱われてきました。実験の対象になったのは、比較的最近のことです。

    そこで分かってきたのは、「知りたい」という状態が、報酬を期待している状態とかなり重なるということでした。雑学的な質問を読ませて脳活動を観察した実験では、好奇心が強いほど報酬の予期に関わる部位の活動が高まっていました。実際の行動でも、好奇心が強いときほど、答えを知るために時間や資源をより多く使っていました1。

    答えを知ることは、脳にとって報酬を受け取ることに近い。好奇心が強いほど、人はその報酬に時間と資源を払います。

    好奇心が高いとき、関係のないことまで覚えている

    好奇心が高い状態で読んだ内容がよく記憶される。それだけなら驚きはありません。同じく雑学質問を使った実験で、もう一段おもしろいことが見つかりました。

    驚いたのは、その状態でたまたま一緒に提示されただけの、質問とは無関係な情報まで、よく覚えられていたことです。実験では質問と質問のあいだに、内容と関係のない人物の顔が挟まれていました。好奇心が高まっている最中に見た顔は、即時のテストでも、1日後のテストでも、より正確に思い出されました2。

    問いを持っているとき、人は目当ての答えだけを効率よく取り込んでいるのではないようです。周辺のものごとまで、いつもより通りやすい状態になっています。何かを本気で知りたくて調べていた時期のことを、関係ない細部まで覚えている。あれが起きています。

    ただし、これらは健康な成人を対象にした比較的小規模な実験です。心理学・神経科学の研究がどこまで再現されるかについては別の記事で触れたとおり慎重に見る必要があり、日常のあらゆる学習にそのまま当てはまるとまでは言えません。

    では、問いはどこから生まれるのか

    長く参照されてきた説明に、「情報のギャップ」という考え方があります。好奇心とは、自分が知っていることと知りたいことのあいだの隔たりから生じる、足りていない感覚だという見方です3。

    この見方には、ひとつ含みがあります。ギャップを感じるには、まず「自分はこれを知らない」と気づいている必要がある。何も知らない状態では、知らないことにすら気づけません。少し知ったからこそ、知らない部分が見える。問いは無知から自動的に湧くのではなく、部分的な理解の縁に現れます。

    それでも私たちは、答えを早く欲しがる

    けれど、宙ぶらりんの状態は落ち着きません。この感覚にも研究の蓄積があります。

    この急ぎ方は、「認知的閉合欲求」として研究されてきました。二つの傾向として現れます。できるだけ早く結論に到達しようとすることと、いったん得た結論をできるだけ長く保とうとすることです44。

    体調が悪いとき、原因を早く特定したくなります。特定できれば対処が決まり、不安が減る。まだ分かっていない領域ほど断定的な説明が現れやすいのは、この需要があるからです。統合医療に向けられる期待にも、同じことが起きています。この動きは、怠慢でも思考停止でもなく、人に共通する傾向として記述されてきたものです。急いで答えを決めたくなる自分を責める必要はありません。ただ、そういう力が働いていると知っておくと、少しだけ扱いやすくなります。

    わからなさは、不安だけを生むわけではない

    医療の領域では、この「わからなさ」との付き合い方が、不確実性耐性(uncertainty tolerance)として研究されています。

    その整理で目を引くのは、肯定的な反応も定義に含まれていることです5。知らないと意識したときに起きるのは、不安や回避だけではありません。興味や探索も、同じ状態から生まれます。

    ただし、どうすれば耐性が高まるのか、高いことが常に望ましいのかについて、確立した答えはまだありません。

    日常に持ち帰れること

    実験室の記憶課題と、健康について何年も考え続けることは同じではありません。そのうえで、三つ。

    ひとつは、答えを保留している時間が無駄ではないこと。結論が出ないまま調べている時期は、効率が悪く見えて、周辺の理解が広がっています。

    二つめは、問いが生まれるには少し知る必要があること。「何がわからないのかがわからない」段階では、まず概略に触れてみる。輪郭が見えてくると、聞きたいことが具体的になります。医療者に相談するときも、「なんとなく調子が悪い」より「いつから、どういうときに、どう変わったか」のほうが話が進みやすいのは、同じ理由です。

    三つめは、早く結論を出したくなる自分の傾向を知っておくこと。急いで決めた答えは、その後なかなか手放せなくなります。閉合欲求の「永続性」が示しているのは、そういうことです。

    問いのまま置いておく

    検査を受けるときにも、同じことが起きます。

    検査はそれぞれ違う問いに答えています。だから問いが決まっていないまま結果を見ると、読み方も決まりません。どの項目を重く見るかは、何を知りたかったかで変わります。

    そして、問いが立っているのに答えがまだ無い領域もあります。マイクロプラスチックの健康リスク評価は、まだ行われていません。この場合の「分からない」は、問いが悪いのではなく、答えが揃っていないほうです。

    健康の分野では、答えが出ていない部分がかなり広い。研究が足りない領域も、研究があっても割れている領域もあります。そういう場所で無理に結論を作ると、たいてい後で修正することになります。

    わからないまま抱えておくのは、落ち着きません。ただそれは、判断を放棄していることとは違います。今のところここまでしか分かっていない、と正確に把握している状態は、それ自体がひとつの理解です。

    やることは、問いを1行で書き出すことです。頭の中にあるうちは、答えを探している問いなのか、まだ輪郭を作っている途中なのかが分かれません。

    書いてみると、たいてい2つに割れます。「◯◯は体にいいのか」は輪郭の途中。「自分の◯◯が△△なのは、何で決まっているのか」は答えを探せる形です。後者の形になったとき、はじめて調べる先が決まります。

    参考文献・参考資料

    1. Kang MJ, Hsu M, Krajbich IM, et al. The wick in the candle of learning: epistemic curiosity activates reward circuitry and enhances memory. Psychological Science. 2009;20(8):963-973. doi:10.1111/j.1467-9280.2009.02402.x https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/19619181/
    2. Gruber MJ, Gelman BD, Ranganath C. States of curiosity modulate hippocampus-dependent learning via the dopaminergic circuit. Neuron. 2014;84(2):486-496. doi:10.1016/j.neuron.2014.08.060 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4252494/
    3. Loewenstein G. The psychology of curiosity: A review and reinterpretation. Psychological Bulletin. 1994;116(1):75-98. doi:10.1037/0033-2909.116.1.75
    4. Kruglanski AW, Webster DM. Motivated closing of the mind: “Seizing” and “freezing.” Psychological Review. 1996;103(2):263-283. doi:10.1037/0033-295X.103.2.263 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/8637961/
    5. Hillen MA, Gutheil CM, Strout TD, Smets EMA, Han PKJ. Tolerance of uncertainty: Conceptual analysis, integrative model, and implications for healthcare. Social Science & Medicine. 2017;180:62-75. doi:10.1016/j.socscimed.2017.03.024 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28324792/

    本記事は心理学・神経科学の研究をもとに、情報との向き合い方を整理したものです。特定の治療法・製品の推奨や、個別の診断・治療に代わるものではありません。

  • 「エビデンスがない」を、どう扱えばいいか

    「エビデンスがない」を、どう扱えばいいか

    「まだエビデンスがありません」と書かれているものの大半は、まだ誰も調べていないほうです。効果がないと分かったほうではありません。

    日常会話では、この二つはほとんど同じ意味で使われます。「証拠がない」と聞けば「じゃあ違うんだろう」と考えるのは自然な反応で、責められることではありません。ただ研究の世界では、この二つは明確に別のものとして扱われています。区別を曖昧にしたまま話が進むと、判断が思わぬ方向へずれていきます。

    「差がなかった」と「差がないと分かった」は違う

    二つの治療を比べて差が出なかった研究は、かつて「ネガティブな研究」と呼ばれていました。この呼び方だと、差がないことが確かめられたように読めます。実際に示されたのは、差があるという証拠が得られなかった、というところまでです。

    この点を指摘したのが、1995年に BMJ の統計解説シリーズに載った「Absence of evidence is not evidence of absence(証拠がないことは、ないことの証拠ではない)」という短い記事でした11。

    この読み違いがどこで起きるのかは、京都大学の公開講義(57分)が正面から扱っています。腰を据えて確かめたいときに。


    差が見つからない理由は、もうひとつあります。参加者の数が少なすぎて、本当はある差を捉えられなかった場合です。二人は、当時の試験の多くがこの規模不足を抱えていたことも指摘しています1。差が見つからなかったのは、差がないからなのか、探す力が足りなかったからなのか。そこを区別していない研究が多い、ということです。

    「見つからなかった」の三つの理由

    差が検出されなかったとき、背後にありうる事情は少なくとも三つあります。

    この区別が実務的に効いてくるのは、たとえば古くからある方法や、特許が取れない物質、対象者の少ない状態を扱うときです。市販のデトックス食にヒトでの無作為化比較試験が存在しないのも、同じ理由です。研究には費用がかかります。誰が費用を出すのかによって、何が調べられ、何が調べられないかは変わります。研究の空白は、必ずしも効果の不在を反映していません。

    「効果がない」を示すには、別の設計が要る

    ひとつは、推定の幅を見ることです。研究は「差は0.5だった」と一点で出すのではなく、「差はこの範囲に収まりそうだ」という幅つきで出します(信頼区間と呼ばれます)。差が見つからなかった研究でも、その幅が「大きな効果はありえない」と言える程度に狭ければ、効果がないことの根拠になります。幅が広ければ、大きな効果も小さな効果も否定できていません。差の有無だけを見ていると、この違いは見えません。

    もうひとつは、最初から「差がないこと」を確かめる目的で試験を組むことです。どこまでの差なら実質的に同じとみなすかを先に決め、それを判定できる人数を計算して実施します。効果を探す試験とは、設計そのものが別になります。

    効果がないという主張にも、効果があるという主張と同じくらいの設計と規模が必要になります。「調べたけれど出なかった」は、その代わりにはなりません。

    「高品質の根拠がある」ほうが、むしろ例外

    ここで、視野を少し広げてみます。医療全体を見渡したとき、高い確実性で効果が示されている介入はどれくらいあるのでしょうか。

    コクラン・レビューで検討された1,567の介入のうち、高い質のエビデンスに利益が支持されていたのは5.6%だったことを示す図
    2008年から2021年までに公表されたコクラン・レビューから無作為に2,428件(全体の35%)を抽出し、プラセボまたは無治療と比較されGRADEで質が評価された介入を調べたもの。1,567の介入のうち87件が該当しました2。

    また、害について測定されていたのは577件(36.8%)にとどまり、そのうち統計的に有意な害が示されたのは127件(8.1%)でした2。著者らは結論として、最近のコクラン・レビューで検討された医療介入の10のうち9以上は高品質のエビデンスに支持されておらず、害は過小に報告されている、と述べています2。

    この数字の受け取り方には注意がいります。これは「医療の9割が効かない」という意味ではありません。GRADEで最高評価がつくには厳しい条件が要り、評価されていない介入も多く、そもそもコクラン・レビューが扱うのは不確実性が残る問いに偏ります。著者ら自身も、コクランの評価者の判断に依存することを主な限界として挙げています2。

    それでも、この結果が示していることははっきりしています。「高品質のエビデンスがある」という状態は、医療の中でもかなり例外的です。だとすれば、「エビデンスがないからやめておく」という判断基準を一貫して適用すると、現に行われている多くのことが対象になってしまいます。

    では、空白をどう埋めるのか

    身近な例では、水を多く飲むことの効果がこれにあたります。無作為化比較試験はごくわずかしかありません。効果がないのではなく、まだ確かめられていない、という状態です。

    研究が足りない領域について、判断を保留し続けることは現実的ではありません。日々の選択は待ってくれないからです。

    見るのは、確実性の高さだけではありません。確実性と、賭けるものの釣り合いです。取り返しがつき、費用も負担も小さい選択なら、確実性が低い段階で試す価値はあります。費用が大きい、他の選択肢を諦めることになる、体への負担がある。そういう選択では、同じ確実性でも答えは変わります。

    もう一つ見るのは、害がどれだけ調べられているかです。効果の大きさをどう読むかについては数字の見せ方を扱った記事が参考になります。ハウィックらの研究で、害が測定されていた介入が4割に満たなかったことは示唆的です2。効果について語られる量と、害について語られる量は、しばしば釣り合っていません。「効果のエビデンスがない」と同時に「害のエビデンスもない」なら、多くの場合それは、安全だということではなく、両方とも調べられていないということです。

    ただし、どの程度の確実性があれば行動を変えてよいのかについて、一般的な基準はありません。予防接種のように集団への影響が大きい判断と、個人の生活習慣の選択とでは、求められる確実性が違って当然ですが、その線引きは統計では決まりません。ここは科学の外側にあります。

    言葉を、二つに分けてみる

    いま進行形でこの区別が問われている例があります。マイクロプラスチックです。

    日本学術会議は提言で、吸着・含有された有害物質による毒性影響の調査事例は少なく、「環境および健康リスク評価は全く行われていない」と書いています。米国FDAも、食品中で検出されているレベルがリスクをもたらすことを現在の根拠は示していないとしつつ、定義・参照物質・採取手順が標準化されていないことを制約として挙げています。

    この状態は「安全と分かった」でも「危険と分かった」でもありません。比べられる形で測れていない、という第三の位置です。欧州の健康リスク評価の結果公表は2027年末までとされています。

    そして同じ空白が、商品の側にもそのまま現れます。検査の蓄積の欄で、重金属と添加物には項目名が並び、プラスチックの欄だけが「準備中」になっているのは、この空白の反映です。空白を空白として表示するか、埋めてしまうかは、作り手の選択です。

    厚生労働省eJIMも「その根拠は?」とたずねること、「情報の出どころを確認する」ことを挙げています3。根拠を問うというのは、根拠の有無だけでなく、その空白がどういう種類のものかまで問うことでもあります。

    「エビデンスがない」と書かれた文に出会ったら、それが調べた結果なのか、まだ調べられていないだけなのかを見分けたいところです。前者なら、どれくらいの規模で調べたのか、信頼区間はどう報告されているのかが次の問いになります。そもそも「エビデンスがある」が何を指すのかを押さえておくと、この問いは立てやすくなります。後者なら、なぜ調べられていないのか——関心が向いていないのか、費用の出し手がいないのか、対象が少なすぎるのか——が問いになります。

    もっとも、公開情報からこの区別をつけるのは、専門家であっても簡単ではありません。どちらであっても、それだけで結論は出ません。ただ、どちらなのかが分かれば、次に何を探せばいいかは変わってきます。

    分からないまま、選ぶということ

    アルトマンとブランドの指摘から30年が経ちますが、「差が出なかった」を「差がない」と読み替える習慣は、いまも消えていません。おそらくそれは、人が判断を早く終わらせたいからでしょう。分からないという状態は、居心地が悪いものです。

    けれど実際には、確実な根拠が揃った状態のほうが例外です。多くの選択は、分からない部分を抱えたまま行われています。それは科学の失敗ではなく、単に世界が複雑だということなのでしょう。

    「エビデンスがないから」と保留にしていることの中に、「まだ誰も調べていない」だけのものが混ざっています。その二つを分けたところから、判断は変わります。

    参考文献・参考資料

    1. Altman DG, Bland JM. Statistics notes: Absence of evidence is not evidence of absence. BMJ. 1995;311(7003):485. doi:10.1136/bmj.311.7003.485 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/7647644/
    2. Howick J, Koletsi D, Ioannidis JPA, et al. Most healthcare interventions tested in Cochrane Reviews are not effective according to high quality evidence: a systematic review and meta-analysis. Journal of Clinical Epidemiology. 2022;148:160-169. doi:10.1016/j.jclinepi.2022.04.017 https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/35447356/
    3. 厚生労働省『「統合医療」に係る情報発信等推進事業』(eJIM)「情報を見極めるための10か条」https://www.ejim.mhlw.go.jp/public/hint/index.html

    本記事は研究結果の読み方を整理したものであり、特定の治療法・製品の推奨や否定を目的とするものではありません。個別の診断・治療に代わるものでもありません。治療の継続や中止について、この記事を理由に自己判断で決めないでください。

  • 「マウスで確認された」を、自分に当てはめていいか

    「マウスで確認された」を、自分に当てはめていいか

    「マウスで確認された」から「人でも起きる」までの距離は、同じデータを見て正反対の結論が出るほど開いています。

    「マウスの実験で、脂肪の蓄積が抑えられることが確認されました」。健康食品の説明でよく見かける一文です。読み手は自然に、自分が摂ったときにも似たことが起きるだろうと考えます。

    その飛躍はどれくらい大きいのでしょうか。動物実験は無意味なのか、それとも十分な根拠なのか。答えは「場合による」ですが、その「場合」を分ける条件はある程度分かってきています。同じデータを見て正反対の結論が出た有名な論争も含めて、整理します。

    動物実験は、何のために行われているのか

    動物実験は、人での試験の代わりに行われているのではありません。多くの場合、人で試す前の段階で、仕組みを調べ、毒性を確認し、次に進むかどうかを判断するために行われます。

    そこで問われているのは「効くかどうか」よりも「試すに値するか」です。研究デザインごとに言えることの範囲が変わる点はエビデンスという言葉を整理した記事でも触れました。動物実験で良い結果が出ることは、人での検証を始める理由にはなっても、人で効くことの根拠にはなりません。この区別が、宣伝文と研究のあいだで最もよく崩れます。

    実際に照らし合わせると、当たったり外れたりしている

    動物とヒトで結果が一致するのかを、6つの治療について正面から照らし合わせた検証があります1。

    結果は、分かれました。

    頭部外傷へのステロイドは、動物では効果が出ていたのにヒトの試験では利益が示されませんでした。出血を止める薬は逆で、ヒトでは効いたのに動物のデータでは結論が出ませんでした1。一方、脳卒中の血栓溶解療法は、動物でもヒトでも同じ方向でした1。

    当たることもあれば、外れることもある。どちらになるかは、事前には分かりません。

    著者らの結論は控えめです。動物実験と人での研究のずれは、バイアスによるものかもしれないし、動物モデルが臨床の病態を十分に再現できていないためかもしれない1。動物実験が間違っているとも、モデルが悪いとも断定してはいません。研究の質に問題がある可能性も、同じ重さで挙げています。

    同じデータから、正反対の結論が出た

    この分野には、読み方の難しさを象徴する論争があります。

    先に出たのはソクらの2013年の論文です。熱傷・外傷・敗血症・感染という、命に関わる急性の病態を対象にしていました2。

    この論文は大きな反響を呼び、マウスでの実験にどこまで頼ってよいのかという議論を起こしました。

    2年後、タカオと宮川が同じデータを再解析しました。絞り込みを変えると、同じ方向に変化した遺伝子は77〜93%にのぼりました3。

    どちらの絞り方にも理屈があり、どちらも査読を通っています。

    この論争から分かるのは、「動物実験は人に当てはまるか」という問いが、何と何を比べるかを決めないと答えられないということです。「再現する/しない」は、比べ方で変わります。

    ずれが生じる、具体的な理由

    個別の理由も分かっています。

    投与量の問題があります。動物実験では、ヒトの通常摂取量からは遠く離れた高用量が使われることが多い。(「解毒作用がある」とされる食品の根拠も、多くがこの段階にとどまっています。)仕組みを見るためには効果を大きく出す必要があるからです。体重あたりで換算しても、そのままヒトの摂取量にはなりません。

    投与経路の問題もあります。腹腔内に注射した場合と、口から摂って消化管を通る場合では、届く量も形も変わります。試験管の中で細胞に直接振りかけた結果であれば、消化と吸収の過程がまるごと省かれています。

    そして対象の問題があります。実験動物は遺伝的にそろえられ、同じ環境で、同じ餌を食べ、多くは若い個体です。病気も人工的に起こされたものです。年齢も背景も生活も異なる人間の集団とは、条件が違いすぎます。

    それでも動物実験が必要な理由

    ここまで読むと動物実験が当てにならないように見えますが、そうではありません。

    仕組みを調べるには、組織を取り出し、遺伝子を操作し、条件を変えて繰り返す必要があります。人ではできないことばかりです。安全性の見当をつけるためにも、先に動物で確かめる段階は欠かせません。

    この検証が示したのは、動物実験が無価値だということではなく、動物で見えたことが人でも起きるかどうかは、人で確かめるまで分からない、という当たり前の事実です。動物実験の結果は、答えではなく仮説の位置にあります。

    どの条件ならうまくいくのかは、まだ見えていない

    正直なところ、動物からヒトへの外挿がうまくいく条件について、一般的な法則はまだありません。疾患領域によって一致度が違うことは示唆されていますが、事前にどちらになるかを予測する方法は確立していません。ソクらとタカオらの論争も決着しておらず、どちらの解析方針が適切かをめぐる応答が、その後も同じ雑誌で交わされています。

    動物実験の側の質にも課題が残ります。ペレルらは、ずれの原因としてバイアスの可能性を挙げていました1。無作為化や盲検化が十分に行われていない動物実験は少なくなく、報告の仕方も研究によってばらつきます。人での試験に求められる水準が、動物実験には必ずしも適用されてきませんでした。

    それでも、「実験で確認された」という表現に出会ったとき、探せることはいくつかあります。対象はヒトか、動物か、培養細胞か。書かれていない場合でも、小さな注記に「マウスにおける試験」と添えられていることがあります。どういう形で与えられたか。飲んだのか、注射したのか、細胞に直接かけたのか。その量は、現実的な摂取量とどう関係するのか。

    これらが分からないとき、その結果は「人でも同じことが起きる根拠」としては使えません。ただし「起きないことの証明」でもない。まだ仮説の段階にある、ということです。

    「まだ分からない」を、どこに置くか

    この置き場所が問われている分野が、身近にあります。「デトックス」です。

    2015年の総説によれば、コリアンダー、海苔、オレストラといった食品に解毒作用を示唆する予備的な知見はあるものの、その大半は動物で行われた研究でした。そして著者らの知る限り、市販のデトックス食の有効性を評価した無作為化比較試験は行われていません。

    仕組みとしてありうる話が、人で確かめられないまま製品の説明になっている——この記事で見てきた構造が、そのまま出ています。

    一方で、経路そのものは人の生理学として確立しています。「仕組みがある」と「その仕組みを外から高められる」のあいだに、この距離があります。

    動物実験の結果は、期待を持つには十分で、確信を持つには足りません。この中間の状態をどう扱うかは、科学の問題というより、それぞれの人の判断の問題になります。

    害が小さく費用も小さいなら、仮説の段階で試してみることに合理性がある場合もあります。逆に、負担が大きい選択なら、もう少し確かめてからでも遅くありません。同じ「マウスでの結果」でも、何を賭けるかで扱いは変わります。「エビデンスがあるか」より先に、「自分は何を賭けようとしているか」を決めたほうが早く進みます。

    健康情報を読むときに効いてくるのは、それが細胞の話なのか、マウスの話なのか、人で試した話なのかを見分けることです。段階が分かれば、期待の大きさもそこに合わせられます。

    実際の商品では、この段階が表示のどこかに書かれています。届け出られた根拠が、その商品を人で試したものなのか、成分についての過去の研究をまとめたものなのかは、確かめられます。

    参考文献・参考資料

    1. Perel P, Roberts I, Sena E, et al. Comparison of treatment effects between animal experiments and clinical trials: systematic review. BMJ. 2007;334(7586):197. doi:10.1136/bmj.39048.407928.BE https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/17175568/
    2. Seok J, Warren HS, Cuenca AG, et al. Genomic responses in mouse models poorly mimic human inflammatory diseases. Proceedings of the National Academy of Sciences USA. 2013;110(9):3507-3512. doi:10.1073/pnas.1222878110 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3587220/
    3. Takao K, Miyakawa T. Genomic responses in mouse models greatly mimic human inflammatory diseases. Proceedings of the National Academy of Sciences USA. 2015;112(4):1167-1172. doi:10.1073/pnas.1401965111 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC4313832/

    本記事は研究結果の読み方を整理したものであり、特定の製品・治療法の推奨や否定を目的とするものではありません。個別の診断・治療に代わるものでもありません。